東洋大学が 2024 年 12 月1日(日)に実施した、2025 年度 学校推薦型選抜 学校推薦入試基礎学力テスト型「国語」大問3(古文)問1の解答速報です。
作成はカナガク。専門性が高いわけではないため、誤りを含む場合があります。
- 英語 大問1(読解)
https://kanagaku.com/archives/75338 - 国語 大問1(漢字)
https://kanagaku.com/archives/75400 - 国語 大問3(古文)問1
https://kanagaku.com/archives/75409 - 国語 大問3(古文)問2
https://kanagaku.com/archives/75421 - 国語 大問3(古文)問3
https://kanagaku.com/archives/75448 - 国語 大問3(古文)問4〜10
https://kanagaku.com/archives/75459
- 数学の解答速報は理数個別指導学院が作成したものをご覧ください。
- 国語(問題3 古文)の現代語訳についても「古文「栄花物語」訳と解釈/2025年度 東洋大学 学校推薦型選抜 基礎学力テスト」を参考にしてください。
広告
目次
a 定め:① 未然形
定め/させ/たまひ/て、
- 全集 p.309「そのおつもりになって、」。
定む(マ下二)。下に続く助動詞「させ」が未然形接続なので、連用形でなく未然形。
b あさましき:④ 連体形
あさましき/まで/ありがたく/おはします/を、
- 全集 p.309「何ともおみごとでいらっしゃるのを、」
あさまし(形シク)。形容詞の活用で「あさましき」となるのは連体形のみ。
全集の注 17 によれば、『御堂関白記』では天皇による定子への配慮に「焦立つ道長の様子」がみえ、『栄花物語』の記事とは「大きな隔たりがある」。
彰子に対抗する存在である定子に好意を示す道長像は、『栄花』特有の把握であり、しばしば創作・虚構とされる。しかし〔後略〕
c 似:② 連用形
似/たてまつら/せ/たまへ/る、
- 全集 p.310「お似通い申されているのを、」
似る(ナ上一)「たてまつら」が動詞で用言。用言が下に続くので、未然形でなく連用形。
全集 p.310 注四によれば、
詮子は定子が参内した二月十一日から三月五日まで法興院にあり、三月八日に参内、十三日に退出している(御堂、権記)。したがって、対面があったにしても、かなり後のことになる。
問四Bで出題されている二月「つごもり」について、全集 p.309 注十二は、
二月十一日のこと(御堂、権記)。彰子退出の翌日である。「つごもり」ではない。
としています。
d うつくしう:② 連用形
うつくしう/見/たてまつら/せ/たまふ。
うつくし(形シク)の連用形「うつくしく」のウ音便。下に続く「見」は動詞で用言。
- 全集 p.310「可愛らしいとご覧申し上げあそばす。」
「哀にうつくしう」、体系 p.205 注三十一「しみじみとお可愛らしく」。
e おはしませ:⑤ 已然形
さて/日ごろ/おはしませ/ば、
おはします(サ四)の已然形+ば。
- 全集 p.310「こうして幾日か宮中にご滞在なので、」
- 体系 p.205 注三十三「数日宮中にご滞在なさるので」。
接続助詞「ば」、已然形+ば=順接の確定条件。
参考文献
- 山中裕・秋山虔・池田尚隆・福長進 校註・訳,新編日本古典文学全集 31『栄花物語①〈全三冊〉』,1995 年8月 10 日 第1版第1刷発行,小学館.
- 松村博司・山中裕 校注,日本古典文学大系 75『栄花物語 上』,昭和 39 年 11 月5日 第1刷発行,岩波書店.
ああ……敦康親王だ…。。。大きくなられて…。。。定子さまの忘れ形見…。。。『枕草子』の最も重要な想定読者のひとり…。。。#光る君へ https://t.co/JYHWfq4HD6
— たられば (@tarareba722) September 20, 2024
定子の子である敦康親王は「後見が弱かったから」という理由で立太子できなかった…とされていますが、後見が弱ければ周囲の公卿が支えればいいのです。それが出来なかったのは、当時の左大臣・道長とその一派が「支えたくない」と考えたからです。#光る君へ
— たられば (@tarareba722) October 20, 2024
敦康親王、『枕草子』にはほとんど登場しないんですよね。定子さまが遺した唯一の男皇子であり中関白家におけるほぼ唯一の希望であったはずなのに。三巻本では(新訂二二四段)「三条の宮におはしますころ」での一節のみ。津島知明先生は「禁欲的と思えるほど、彼(敦康)への言及は避けられている」(…
— たられば (@tarareba722) October 3, 2024
書いてて非常につらいですが、定子さまは今回の翌年、西暦997年に第一子を出産。その二年後に二人目(敦康親王)、翌年暮れに3人目を出産した直後に崩御します。短い期間に3人を出産。母体への無理が、定子の寿命を満24歳に縮めた…という説があります。父道隆の呪い…とも言えますね…。。#光る君へ
— たられば (@tarareba722) April 28, 2024