『サイド・トラック』読書感想文

『サイド・トラック――走るのニガテなぼくのランニング日記』読書感想文です。

分量は、題名・学校名・氏名を除き、400字詰め原稿用紙で5枚半程度(※)です。

※ 青少年読書感想文全国コンクールの規定は5枚まで。


『サイド・トラック――走るのニガテなぼくのランニング日記』

サイド・トラック

サイド・トラック

  • 作者:ダイアナ・ハーモン・アシャー/武富博子
  • 出版社:評論社
  • 発売日: 2018年10月10日

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『サイド・トラック』を読んで

神奈川 花子

 『サイド・トラック』は私にとって、全体的にはつまらなかった。しかし、ヘザーの母親に関する部分については考えさせられる作品だった。

 まずは全体について書こう。

 この作品はADD(注意欠陥障害)を持つジョセフがクロスカントリー走を通じて成長していく物語だ。ジョセフは障がい者で、ユダヤ人で、いじめられっ子だ。その彼の所にヘザーというヒロインがやってきて、最後にはすべてがうまくいく。

 とても素朴な作品だと思う。甘口カレーのようで、決定的な破局が訪れることがない。終わり方もハッピーエンドで、まるで通信教育のダイレクトメールについてくるマンガのようだ。私にはなぜこれが「中学生の部」の課題図書に選ばれたのか不思議に思える。子どもだましのような筋の作品であり、対象年齢は小学生くらいだろう。

 日本人作家が書く部活動もののような作品だとも言えるかもしれない。読んでいる最中、登場人物の名前をはじめとした固有名詞や、学校内の細かい描写を除いては、海外の作品だという感じがしなかった。ジョセフがいやいや入部した部活動でヒロインのヘザーと出会い、上達し、すべてがうまくいく。ただ、もし日本人作家が書いていたのなら、もう少し丁寧に書いていたと思う。

 この作品は全体的に「雑」に感じられた。

 まず、ジョセフがADDであるということが作中からあまり感じられない。特に後半は無視されているといっていいくらいだ。もちろん、ADDの子がふつうの子とそこまで違うわけではないのだ、という主張として読むこともできるのだろうけれど、もっと丁寧に取材し、本人やご家族の苦しみなどを描いてもよかったと思う。日本人作家であれば、そこをもっときちんと描くだろう。

 そして、なぜジョセフの足がだんだん速くなっていったのかもよくわからなかった。陸上部を描いているのだから、やはり、もっとその練習メニューなどを詳しく取材し、どのようにして未経験者が上達していくのかということを描くべきだろう。ただやみくもにでも走ってさえいれば足が速くなるというものでもないはずだ。少なくとも物語上の説得力はない。

 『サイド・トラック』というタイトルも良くないと思う。「脱線」・「側線」といった意味だが、はたしてジョセフは sidetracked な男の子なのだろうか。

 脱線するためにはレールの上を走っていなければならないし、側線に入るためには本線を走っていなければならない。しかしジョセフはもともとチャーリーのような人物ではなかった。アメフト部に入ってチアリーダーの女の子と恋愛するような男子ではなかった。また、ブロックトンの子たちのようでもなかった。その意味で、ジョセフはそもそも本線を走っていなかった。

 もちろん、チャーリーやブロックトンの子たちが走っているのが「本線」であり、そうでない子が走っているのが「側線」である、ないし、そうでない子たちは「脱線」している、などと主張する気はない。人はだれもが、自分にとっての「本線」を走っているし、そこ以外を走れるものでもない。しかしそうだとすると sidetrack されることもできない。

 そうしたわけで、『サイド・トラック』全体は、私にとってあまりおもしろいものではなかった。しかし、ひとつ興味深かったところがある。それは、ヘザーの母親に関する部分だ。

 ヘザーの母親は女性研究者だ。研究のために、遠くハワイに長期滞在している。彼女は研究が好きなのだろう。しかしヘザーは、母親と離れた暮らしを寂しく思っている。物語の後半、ヘザーの母親は、ヘザーとその父親とに対し、ハワイに引っ越してくるよう頼んだ。しかしヘザーは戸惑ってしまう。結局母親がハワイでの研究よりも娘の方を優先して物語が終わるのだが、ここにはワーキング・マザーの問題、『サイド・トラック』ならぬ「マミー・トラック」の問題が潜んでいやしないだろうか。

 ヘザーの母親にとって、仕事は楽しい。やりがいもある。彼女には能力もあって、その能力の獲得のために、これまで膨大な資源を投下してきた。それなのに、子育てのためにキャリアを「降りて」、研究から離れる決心をする。彼女のこの気持ちにこそ、私は関心を持った。

 『サイド・トラック』というのなら、ジョセフよりもヘザーの母親の方がよほど sidetracked だろう。一度母親というトラックに入ってしまったら、第一線の研究者というトラックに戻ることはできない。

 彼女は研究者としての自分を諦めたのだと思う。凡庸にも思える、母親としての生活を選ぶときには、相当な葛藤があったことだろう。

 これから先、彼女はヘザーの服を洗濯しながら、あるいは家の掃除をしながら、家族の食事を作りながら、

 「これって本当に私がしなければいけないことなの? 私がすべきことは研究ではなかったの?」

 と思わないだろうか。

 作者のアシャーは育児を機に会社を退職している。そのときに迷いや悩みはなかったのだろうか。自分が「マミー・トラック」に入ったときの気持ちをこそ、もっと書いてほしかった。


参考

青少年読書感想文全国コンクール 2019 課題図書が発表
https://kanagaku.com/archives/26628