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『ごめんねでてこい』読書感想文

青少年読書感想文全国コンクール 2024 小学校低学年の部の課題図書ごめんねでてこいの読書感想文です。


『ごめんねでてこい』を読んで

カナガク 花子

 いつものくらしのなかで、同じものを見ていても、同じことをしていても、わたしとお母さんとでちがうかんがえのことがよくあります。たまにおじいちゃん・おばあちゃんに会ったりすると、その「ちがい」はもっと大きくなります。子どもか大人か、おじいちゃん・おばあちゃんかで、考えることがちがってくるのでしょう。その「ちがい」も、ずっといっしょにくらしていれば、毎日のなかにうまっていってくれます。でも、それまでべつべつにくらしてきた人たちがいきなりいっしょになったら、「ちがい」は大きく思われるでしょう。たとえば、けっこんしたとき。それから、はなちゃんの場合のように、おばあちゃんといっしょにくらすようになったとき……。

 『ごめんねでてこい』の本をみたとき、イラストですぐに、

「これは、すなおに『ごめんね』を言えない子のお話だな」

と分かりました。いったい、どんなことをして「ごめんね」と言わなければならなくなってしまったのでしょうか。

 『ごめんねでてこい』では、まず、はなちゃんの家におばあちゃんがやってきます。おばあちゃんの「古くなった 家を こうじする あいだ、はなちゃんのうちで いっしょに くらすことに」なったのです。はじめはうれしくてしかたなかったはなちゃんですが、だんだんと、はなちゃん(や、そのお父さん・お母さん)とおばあちゃんとの「ちがい」がギシギシと音を立てはじめます。食べものにお魚やにものがおおくなったことからはじまって、学校から帰ったらすぐにしゅくだいをさせられること、おやつのあとにはみがきをさせられること、おふろ、へやの明かりのオン・オフ……。

 「ちがい」は、はなちゃんのもやもやにつながってきます。おばあちゃんは、自分が「正しい」ことをぜんぜんうたがわずに、はなちゃんのくらしに口を出します。それも、とてもこまかいところまでぜんぶに、です。それは、これまではなちゃんが自分のことを自分できめていたくらしをじゃまするものでした。子どものはなちゃんは、もちろん「まちがった」こともするでしょう。でも、おばあちゃんがいつも「正しさ」の先回りをして、まるでロボットをそうじゅうするようにはなちゃんに口出しするのはおかしいです。

 子どもにたいして、お父さん・お母さんが「正しい」ことをめいれいするのは、たしかに頭では分かります。でも、そのめいれいがあまりにも細かすぎたら、

「わたしはお父さん・お母さんのロボットでも手足でもない」

と思うでしょう。いつか子どもはお父さん・お母さんからはなれていきます。それなのにあまりにも細かいめいれいをされると、

「子どもと自分とを分けて考えられていないのだな」

と思います。子どもは子ども。大人とはちがう心と体とをもった、一人のべつの人間です。

 『ごめんねでてこい』のおばあちゃんは、きっとそのあたりが分かっていません。だから、はなちゃんはおばあちゃんへのもやもやをどんどんためこんでいきます。

 「はなちゃんは、おばあちゃんに『でもね』と 言われると、なにも言えなくなって しまいます。」と書かれたページでは、はなちゃんのうしろに大きな青空が広がっています。青空は、はなちゃんの自由へのあこがれです。このカラーページは、この本の中でいちばん大切なところのひとつです。

 ある日、おばあちゃんは家にあそびにきたゆうちゃんをおこってしまいます。ゆうちゃんは

「もう はなちゃんの おうちに あそびに 行けないかも。おばあちゃんに、おこられちゃったもん。」

と言って、かけていってしまいました。かなしいきもちで帰ったはなちゃんに、おばあちゃんは、

「おとなが ちゃんと 〔マナーを〕教えて あげていないんだよ。あの子の ためにも、教えて あげないとね。」

と言います。

 ――これは、あまりにもひどすぎます。自分だけ「正しい」つもりでいい気もちになっているだけです。はなちゃんの家にははなちゃんの家のくらしがあるのに、そのくらしをこわすものです。かりにいくら「正しい」ことだとしても、それをどこまでもむりやりおしつけていいわけではありません。また、あたりまえのように「正しさ」をおしつけられることをイヤだと思わない子どもがいるでしょうか。

 だいたい、おばあちゃんの「正しさ」は、おばあちゃんだからカンタンにまもれるものなのではないでしょうか。はなちゃんがゆうちゃんとがお友だちでいられるのは、はなちゃんがきちんと考えてゆうちゃんとあそんでいるからです。そのはなちゃんの考えのことを考えてあげなければいけません。

 そもそも、どうして「古くなった 家を こうじする」なんて言っていきなりやってきたおばあちゃんに、ゆうちゃんとの間にわって入られなければいけないのでしょうか。おばあちゃんはそこでは関係ない人のはずです。

 もっと言えば、おばあちゃんの言い方もとてもわるいです。はなちゃんがおこったとき、「おばあちゃんは、せんたくものを 手に もったまま おどろいて ふりむきました」。――ということは、おばあちゃんは、はなちゃんにせなかをむけたまま、はなちゃんの目を見ることもせずに、せんたくものをたたみながら、その「正しさ」を口にしていたというわけです。これはあまりにもはなちゃんをバカにしています。

 はなちゃんは言いました。

「ゆうちゃんの こと なんにも しらないくせに。おばあちゃんなんて、きらい!」

はなちゃんがとてもかわいそうです。

 たぶん、おばあちゃんはむかし、きびしくそだてられたのでしょう。そして、自分がこどものときに言われたことを、そのままはなちゃんやゆうちゃんに言ってしまっているのでしょう。

 「よる、はなちゃんの へやに、おばあちゃんが やってきました。」

 そして、「ごめんね。おばあちゃんが わるかったよ」とあやまります。でも、はなちゃんは「いいから、あっち いって」と、ゆるしてあげませんでした。

 そうして、そのうち、おばあちゃんの家のこうじもおわって、おばあちゃんといっしょのくらしもおわります。はなちゃんはおばあちゃんとなかなおりできませんでした。

 「(また すぐに 会えるだろうから、そのときは いっぱい お話を しよう。)
 はなちゃんは そう 思っていました。」

 このぐらいのすれちがいは、よくあることです。

 でも、『ごめんねでてこい』はもっと先へとすすんでいきます。おばあちゃんはある日、きゅうきゅう車ではこばれて、そのままにゅういんすることになってしまいました。

 おじいちゃん・おばあちゃんというのは、にゅういんするとすぐに心も体もよわっていくものです。はなちゃんのおばあちゃんもそうでした。やっとはなちゃんがおみまいに行けたとき、おばあちゃんのうでは前よりずっとやせていて、その力もよわくなっていました。はなちゃんが「また 来るね」と手をふると、「だめ」と、まるで子どものようなことを言います。おばあちゃんの「帰らないで。まだ ここに いて」という気もちが、その「だめ。だめ」からはなちゃんにつたわります。

 帰り道、はなちゃんは「こんどは」と思います。「おばあちゃんが 元気に なるように、できることを しよう」と。

 でも、おばあちゃんは元気になるのでしょうか。

 きっと、そうはならないはずです。帰り道のカラーページには、また青空が広がっています。青空は、はなちゃんが自由をねがったときに広がっていたものでした。だから、はなちゃんはおばあちゃんという糸のこんがらがりをザックリ切って、自由になれるのです。つまり、おばあちゃんはもう、はなちゃんに「正しさ」をおしつけるような、元気なすがたにもどれないのです。

 ――それにしても、この『ごめんねでてこい』のお話はなんだったのでしょうか。シリーズの名前にあるような「わくわくえどうわ」とは、ずいぶんちがうお話だったように思います。お話のカギは、考えも思いやりもなく「正しさ」をふりまわし、はなちゃんのせかいにズケズケと入りこんだおばあちゃんにあったのではないでしょうか。おばあちゃんは、自分がすこしのあいだだけやってきた「おばあちゃん」であることをきちんと考えていなかった。そうしたおばあちゃんになやまされ、あとあじがわるい思いをするはなちゃんが、やはりかわいそうでした。

 ただ、さいごに。人は、その人が何才なのかで考え方をかえていきます。いまは『ごめんねでてこい』を読んでも、はなちゃんのおばあちゃんがわるいとしか思えませんでした。でも、もしかしたら、わたしがおばあちゃんくらいの年になったら、またちがう考え方になるのかもしれません……。