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『ある晴れた夏の朝』読書感想文

ある晴れた夏の朝読書感想文です。

分量は、題名・学校名・氏名を除き、400字詰め原稿用紙で8枚程度です。


『ある晴れた夏の朝』

ある晴れた夏の朝

ある晴れた夏の朝

  • 作者:小手鞠るい/タムラフキコ
  • 出版社:偕成社
  • 発売日: 2018年07月12日

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『ある晴れた夏の朝』を読んで

神奈川 花子

 小手鞠るい先生は、ベテランのYA作家です。そのひとつひとつの作品からは、先生の丁寧なお仕事ぶりが伝わってきます。また、そのSNSでの発信からは、先生の丁寧な暮らしぶりが伝わってきます。わたしが初めて小手鞠先生の本を読んだのは、『心の森』を読んだときでした。透明感あふれる感動的なお話だったことを覚えています。

 実は、先生からは二度、SNS上でメッセージを頂いたことがあります。一回目はそのSNSで先生のフォローを始めたとき。二回目は『炎の来歴』が発売されたときです。どちらのメッセージもとてもハートウォーミングな、心のこもったものでした。一介の読者ひとりに対してここまでしてくださることに、ドキドキと胸を高めたものでした。

 『ある晴れた夏の朝』は、そんな小手鞠先生による原爆入門です。この本を通じてわたしたちは、たとえばアメリカでは広島・長崎への原爆投下が肯定的に捉えられていることなどを知ることができます。「プロローグ」から「関連年表」までの二〇四ページは小手鞠先生による原爆の学習記録であり、小説風に書かれた原爆投下の是非をめぐるレポートです。

 さて、『ある晴れた夏の朝』はとても素晴らしい作品です。しかし、すばらしい作品だからこそ、

 「もっとこうだったらよかったのに」

 と思ってしまう点がいくつかありました。これらはわたしの読み込み不足や感性の硬さなどに由来するものではありますが、素直な気持ちとして、以下に挙げて感想文としたいと思います。

 まず、わたしが不足に思ってしまった第一の点は、あまりにも作品全体が透明感に覆われていることです。あまりにもきれい過ぎます。オルゴールのために編曲され去勢されたロックや、無印良品のインテリアで揃えられた部屋のように、作品が徹底的にサニタライズされています。この「生々しさの無さ」こそが小手鞠作品の大きな魅力ではあるのですが、そうした魅力は『心の森』のような、好きな女の子が病気で死ぬ話などで発揮されればいいと思います。

 第二に、特に後半、果たしてこの討論会が議論として成り立っているのだろうか、という点にも不足を感じました。演壇に立ったひとりひとりは、自分の前に話した相手の議論に乗るというよりは、いかに聴衆の共感を誘うかに腐心しているように見えます。前半でディベートとはどういうものか――ということが詳しく説明されている分、この違和感は大きかったです。後半で行われているのは討論というよりも、むしろ弁論術の披露でしょう。

 そして第三に、もっとも物足りなく思ったのが、感情表現の白々しさです。たとえば、ラウンド3のナオミの演説の途中に、原爆否定派の気持ちとして

 「わたしたち原爆否定派は、まるで足もとの床をぐらぐらゆさぶられているような気分におちいっている」

 という表現があります。こう書かれるとつい、

 「いや、そこまでの気分にはならないだろう」

 と冷めた見方をしてしまいます。

 おそらくこう思えてしまう理由は、ひとつには、表現がオーバーであったり、修飾語が過多であったりすることでしょう。ナオミの演説中の原爆否定派の気持ちも、ただ

 「わたしたちは少し焦った」

 とだけ書いて、もっとハードボイルドにしてくれたほうが、わたしの好みでした。

 感情表現が白々しく思えてしまったもうひとつの理由は、おそらく、『ある晴れた夏の朝』に「日常パート」がないことでしょう。

 この小説はほぼ最初から最後までが討論会の描写となっています。討論会以外の場面はほとんで描かれません。このことが、登場人物に対する感情移入を拒み、登場人物に関する感情描写に白々しさを感じさせているのです。

 「日常パート」なしで登場人物を「立てる」ためには、ステレオタイプに頼るのが一番です。図書委員の女の子を登場させて一瞬でそのおとなしさを描くように、人物の属性などの「記号」によってキャラクターを「立てる」のが定石です。『ある晴れた夏の朝』でも、そうした手法が採られているように思います。

 しかし、ひとたびそう思えてしまうと、ひとりひとりの人物が生身の人間として感じられなくなってしまいます。現実世界のひとりひとりの人間は、そこまで簡単に記号化されていません。

 登場人物のような作品のコアに記号が用いられていると思えてしまうと、まず、アメリカの高校生活の描写が現実味を失います。そこにあるアメリカはラストベルトのアンダークラスを抱えるようなトランプのアメリカではなく、ニューヨークで多様な人々が共生するようなオバマのアメリカです。

 そして、『ある晴れた夏の朝』が人物造形に「記号」を使っていると感じ始めるともっとも「ひっかかる」のが、中国系のエミリーと、ユダヤ系のナオミとの描かれ方です。

 日本人の小手鞠先生が先の大戦をテーマにした小説で、中国系のエミリーに

 「原爆で亡くなった広島と長崎の人々は……殺されて当然だったのではないでしょうか?」

 などと言わせ、彼女を「悪役」にするのは気持ちの良いものではありません。

 「第一回の最後に飛んできたあの野次。あれは、エミリーがあらかじめ頼んでいた人から発せられたものだったのかもしれない」

 という記述にも、先生ご自身が気付いていない何かが隠れている気がします。中国や朝鮮などの戦争被害者の方々が日本に謝罪を要求する姿を、エミリーに重ねてはいないでしょうか。

 アメリカに住む小手鞠先生がユダヤ系のナオミを「悪役」にしていることも気になります。

 日本で生まれ育ったわたしでも、こっそりと観たテディベアの映画『TED』の冒頭部分などから、アメリカのハイスクールにおけるユダヤ系アメリカ人の微妙な立ち位置は想像できます。

 そんなユダヤ系のナオミに

 「ばかばかしい! ばかも休み休み言ってほしい!……私の神経は、プツンと切れました。人種差別。戦争と人種差別。なるほど、それはまた、ごりっぱなテーマを持ち出してきたものです」

 などと「とげだらけの、弾丸みたいな言葉」を言わせるのはどうなのでしょうか。

 「アジアのヒトラーを原爆でこらしめて、どこがいけないのですか?……原爆によって、救われた日本人もいたんじゃないですか」

 などと言わせるのであれば、それはユダヤ系アメリカ人の登場人物に担わせるべき役割ではなかったでしょう。

 こうした感覚を持つと、「日系人部隊442連隊」に関する部分にも、何か違和感を感じ始めてしまいます。

 日本では一九九八年、小林よしのりの『新・ゴーマニズム宣言 SPECIAL 戦争論』が話題になりました。それは国内の反米保守思想の表出でした。第二次世界大戦の加害者として糾弾されることに対してたまっていた鬱屈が爆ぜたのでしょう。その『ゴー宣』と同じ匂いが、小林よしのりとは正反対の作風の小手鞠先生から感じられました。

 『ある晴れた夏の朝』は、透明感のある美しい文章で反戦・反核を貫いています。しかし、そのなかに潜む危うさは、わたしの心に強くひっかかったのでした。


参考

課題図書

青少年読書感想文全国コンクール 2019 課題図書が発表
https://kanagaku.com/archives/26628