大塚敦子『犬が来る病院 命に向き合う子どもたちが教えてくれたこと』の読書感想文例です。
分量は、題名・学校名・氏名を除き、400字詰め原稿用紙で5枚に少し満たない程度です。
目次
犬が来る病院 : 命に向き合う子どもたちが教えてくれたこと
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『犬が来る病院 命に向き合う子どもたちが教えてくれたこと』を読んで
神奈川 太郎
私は『犬が来る病院』を読んで、人の命の価値について考えずにはいられなかった。
ひとりの命を救う――ないしは延ばすためのコストは、医療技術の進歩とともに上がり続けている。だから、ついつい
「人の命には、それだけのコストをかける価値があるのだろうか」
と考えてしまう。
しかし、私たちに、そのひとりの命の価値を決める権利はない。少なくとも、現代に生きる私たちは、自分たちにそういう権利がないという理念を掲げてきたはずだ。その理想の旗を誇り、掲げ続けられるかどうかが、いま、試されている。
『犬が来る病院』の大部分は、四人の子どもたちの物語だ。その四人というのは、ちぃちゃん、悦子さん、信ちゃん、そして翔太くんの四人である。
ちぃちゃんは白血病で、信ちゃんはダウン症と白血病で、それぞれ聖路加国際病院の小児病棟に入院していた。できる限りの治療が行われたが、二人とも、結局は短い命を終えることとなった。
悦子さんはやはり白血病で、翔太くんは潰瘍性大腸炎で、同じ小児病棟に入院していた。彼ら二人は現在回復し、大学へと進学している。悦子さんは心理学科で臨床心理士になるための勉強を、翔太くんは医学部で医師になるための勉強をしている。
ちぃちゃんと信ちゃんが生きた、そして、悦子さんと翔太くんが生きている人生を考えたとき、ふと私の心に、意地悪な考えがよぎった。
「ここに書かれているような治療は、果たしてそのコストに見合うものなのだろうか」
たとえば、信ちゃんはダウン症である。たとえ白血病を克服できたとしても、社会に出て活躍するためには、さらなるハードルを超えなければならなかったはずだ。
また、悦子さんは臨床心理士になるという。その仕事で、これまの治療にかかったコストを上回る社会貢献をできるのだろうか。
要するに、莫大なコストをかけて難病の治療を試みることに、どれだけの合理性があるのだろうか。
現代日本に生きる私たちは、いま、増え続ける医療費を、誰が、どう支えるかということに頭を悩ませている。かつてのように豊かではない私たちに、際限なく費やせる資源などない。だから、助かるか分からない命に莫大なコストをかける代わりに、その資源があれば救えた命や生活に、もっと割り当てを増やすべきなのではないだろうか。
たとえ、ある命を助けられたとしても、そのために投じられた資源があまりに大きかったとしたら、その是非には議論の余地が生まれないだろうか。
そもそも、かつてであれば救えなかった命を救えるようになったことは、果たして幸せなことだったのだろうか。それは、ある人々にとっては、いたずらに苦しみを長引かせるだけだったのではないだろうか。「生きられるかもしれない」と知らなければ味わわずに済んだ苦しみを、なまじ希望を与えられたばかりに味わっているのではないだろうか。
……しかし、ここまで考えたとき、私は自分の考えの恐ろしさを感じずにはいられなかった。私の考えは、失われても構わない命があるということを前提にしている。私は、たとえば信ちゃんのことを、はじめから諦めるべきだったと主張してしまっている。
私に、他の誰かの命の価値を決める権利はない。人はみな、生まれたというただそのことだけで価値がある。それは、私たちが堅く守っていかなければならない理念だ。
人が人の命の価値を決められると思い上がった先にあるのは、価値がないと見なされた人々の見殺しであり、彼らへの差別と偏見であり、「学」とは名ばかりの優生学がはびこるディストピアだ。人類はそれを、悲しい歴史の中で嫌というほど経験した。その経験を、そこで失われたあまりにも多くの命を、私たちは無駄にしてはいけない。
経済的繁栄が失われ始めると、私たちはついつい、掲げてきた理想の価値を忘れ、やがて幸福の形をも見失ってしまう。聖路加国際病院で行われている治療やケアは、間違いなく現代日本の私たちが誇るに足るものだ。平和で豊かな社会が生み出した、理想の結晶だ。
これからだんだんと、特に経済的に、それを維持していくことが難しくなっていくことだろう。しかしそのときにこそ、旗を掲げ続けようとする私たちの信念が試されることになる。
参考
話題ネタ!会話をつなぐ話のネタ,「【犬が来る病院】読書感想文あらすじ(ネタバレ)と例文・オススメ度」, http://xn--5ck1a9848cnul.com/8939 ,2017年5月17日閲覧.