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『カーネーション・デイ』読書感想文

ジョン・デヴィッド・アンダーソンカーネーション・デイ読書感想文です。

分量は、400字詰め原稿用紙で7枚程度です。


『カーネーション・デイ』

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『カーネーション・デイ』を読んで

神奈川 花子

 『カーネーション・デイ』は、人が人と向き合っていくことの大切さ、かけがえのなさを描いた小説だ。商業的に成功しているのかどうか知らないけれども、もしこの感想文を読んで興味を持ったなら、あなたにもぜひ手に取ってほしい。あまりに良すぎて、私が語るべきことはもう何もないようにすら思えてしまう。子どもに本を薦めるとき、古典的名作ばかりを薦める人がいるが、それは知的怠惰であり、好奇心の老衰だ。もしあなたが教師や司書、書店員などであれば、ぜひ『カーネーション・デイ』を薦めてほしいと思う。この本が誰にも開かれずに図書館や書店で眠っているのは、あまりにももったいない。だれにも読まれない本は、だれにも聞かれない音と同様に、この世に「存在しない」のだから。

 物語のあらすじを端的に言えば「大切な人が死ぬ話」だ。そして「子どもたちが冒険をして成長する話」だ。こう書くと

 「またその手の話か……」

 と思ってしまう人もいるかもしれない。しかし、これはおそらく作戦なのだ。もっとも典型的なパターンに乗せて物語を展開させるという、筆者の作戦なのだ。優れた物語は必ずアーキタイプをなぞる。あえて明確に典型をなぞることで、読者の信頼を勝ち得ようとしているのだ。そしてその作戦は見事に成功している。

 格言(めいた言葉)をしばしば差しはさんだり、視点をスイッチさせながら物語を進めていく手法も、どこかで(たとえば『ワンダー』で)見たテクニックだ。しかしそれも作品に良い影響を与えている。

 話を元に戻そう。『カーネーション・デイ』は、人が人と向き合うことの大切さを描いた物語だ。それは裏を返せば、わたしたちが日々、人と向き合えていないということでもある。そしてそのことによって、欠落を抱えてしまう子たちがいる。子たち――いや、きっと大人たちだってそうだろう。

 この物語で死ぬのは、ビクスビー先生という若い女性の先生だ。彼女は子どもたちひとりひとりに真摯に向き合い続けることによって、ひとりひとりの心の欠落を埋めていく。生徒のそれぞれに、きちんと、人として接してあげている。そのかけがえのなさこそが、『カーネーション・デイ』のメイン・テーマだ。わたしはふだん、どれだけ人を人として見て、目の前のその人と心から向き合えているだろうか。

 わたしはスティーブンの両親だ。

 わたしには幼い弟がいる。彼の成績が悪いとき、わたしはそれを担任の女教師のせいにする。彼に瑕疵があれば眉をひそめる。彼が優秀であれば、それだけいっそう愛を注いでしまう。わたしは反省する。優秀とはけっして言えない弟が無垢な瞳で話しかけてくるとき、わたしはきちんと向かい合って、返答を返せているだろうか。

 また、わたしには平凡な父親がいる。彼が、彼と私との間でしか通じないような冗談をとばしてくれるとき、わたしはきちんと冗談を返せているだろうか。

 わたしはおそらく、自分の家族にさえきちんと向き合えていない。スティーブンの両親と同じだ。

 家族に向き合ってもらえないことは、心に暗い影を投げかける。級友にそんな影を感じることもある。

 「わたしを見て!」

 という悲痛な叫びをふとした素振りに感じるとき、わたしは痛々しい思いでいっぱいになる。誰だってそう、自分のことを見てほしいのだ。いたずらも、おふざけも、悪ぶってみせるのも、コケトリーも。ひょっとしたら、がんばって勉強したりするのも、みんな自分のことを見てほしいからだ。認めてほしいのだ、誰かひとりにでも。裏を返せば、それだけわたしたちはふだん、だれにも認めてもらえずにいる。

 わたしはまた、トフィーの両親だ。

 わたしは毎日、勉強に部活に学校行事にと、忙しく駆け回っている。まだ小さい弟や凡庸な父親と話をするよりも、自分のことを優先させてしまうことの方が多い。いや、多いどころではない。いつも自分の方を優先させてしまう。

 わたしは優しいお姉ちゃんだから、弟が自慢げな様子をしているときには褒めてあげる。しかし、それは心からの称賛ではない。紋切り型の褒めことばを口にするだけだ。弟は、きっとわたしの心など見透かしてしまっているだろう。そして、淡い悲しみを感じているだろう。

 わたしはまた優しい娘だから、父親が話したくて仕方なさそうにしているときには声をかけてあげる。しかし、その声掛けに社交辞令以上の何かがあるだろうか。父親だって分かっているはずだ。寂しい思いをさせてしまっていると思う。

 わたしはさらに、ブラントの父親でもある。

 わたしはいつも、自分のことで精一杯だ。自分自身が思い通りにならない。どんなにがんばっても、どうしようもならない。小さい頃からいままで、わたしは多くの苦難を乗り越えてきた。もうこれ以上苦しみを乗り越える力は残っていない――そんな思いに囚われることがある。何をしても、何も良くはならないのだという諦め。無力感。そして抱く自己嫌悪。行きつく先は現実逃避。

 物語の終わり、ブラントの父親がブラントのために再び立ち上がってくれたのは本当に良かった。彼はきっと、もう大丈夫だろう。ブラントを悲しませはしないだろう。

 最近見た映画で、悪役のセリフにこんなものがあった。

 「どうせ視聴者はそんな細かいところまで観てませんよ」

 映画の主人公はテレビドラマの監督で、いままさに撮影の真っ最中だ。トラブルでドラマの鍵となるシーンを撮影できなくなりそうになったとき、悪役のプロデューサーは言った。ドラマ全体の設定に関わるシーンだろうと、そんな細かいところなど視聴者は観ていない。だからシーンをカットしよう……。

 主人公の監督は一瞬激高して叫び返す。

 「観てますよ!」

 彼は視聴者を信じている。もしドラマに少しでもおかしいところがあれば、それに気付くはずだ。

 映画は結局、主人公の娘の機転で撮影に成功し、大団円を迎える。

 「どうせ」わたしたちはお互いをきちんと見ていない。諦め。あるいは怠惰。そういったものから、わたしは逃れていきたいと思う。ひとりひとりの人と、もっと向き合い、その心に寄り添っていきたいと思う。どんな相手であったとしても、彼/彼女の言葉に耳を澄ませたい。自分がトファーの両親のように忙しかったり、ブラントの父親のように困難を抱えていたりしても、常に他者を人として見つめたい。

 わたしは切に、

 「誰かは観てくれている」

 と信じる人にとっての「誰か」でありたいと思う。