2016年度「第62回 青少年読書感想文全国コンクール」の課題図書、『二日月』の読書感想文例です。
分量は、題名・学校名・氏名を除き、400字詰め原稿用紙でほぼ3枚です。
二日月
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『二日月』を読んで
神奈川 花子
私は、何かのために生まれてきたわけではありません。テストでいい点数をとるために生まれてきたわけでもなければ、かけっこで一等賞をとるために生まれてきたわけでもありません。
お父さんは、いつも私に
「パパは、花子が花子だから、花子のことが好きなんだよ。テストが一〇〇点だから好きなわけじゃないし、かけっこが一番だから好きなわけでもないんだよ」
と言ってくれます。だから、私は安心してテストで六〇点をとって、お母さんに怒られることができます。
私は、お父さんのような考え方が好きです。また、それが当たり前だと思っています。ところが、「何のためにもならない人は、生きている意味がない」という考え方もあるようです。
昔、スパルタという国がありました。そこの人たちは、自分たちよりもずっと多くのドレイを使っていました。そのため、ドレイたちの反乱をこわがって、戦うじゅんびばかりしていました。戦うとき、体の弱い人はじゃまになります。そこで、スパルタでは、生まれた赤ちゃんが健康でなかったときには、その子を殺してしまったそうです。
「ドレイに負けない」というような、あるひとつの目標を、みんなが一番に大切にしていたら、お父さんのような考え方はできません。そこでは、私たちは、その目標に向けて役に立つ人にならなければ、生きている意味をもてません。私は、スパルタのような国に生まれなくて本当によかったと思います。
『二日月』の芽生は、障がいをもって生まれてきました。生まれるときに酸素が脳に届かない時間が長かったからです。芽生には、他の赤ちゃんにできることができません。
物語の主人公である杏や、そのママとパパ、友だちの真由、クラスメートの藤枝くんなど、芽生の近くにいる人たちは、みんないい人ばかりです。だからこそ、みんな苦しみます。
杏はがまんできなくなってさけびます。
「芽生なんて、うまれてこなきゃよかったんだ」
しかし、そう言ってしまった杏自身が、よく分かっていました。「あたしは、いちばんいっちゃいけないことをいった」のだ、と。
芽生は、もしかしたら「じゃまな子」かもしれません。スパルタだったら殺されてしまっていたでしょう。しかし、だれかが「生きる」ことをじゃまにしてまで、生きる意味などあるのでしょうか。芽生が生きるということよりも大切なことなど、だれが決められるというのでしょうか。
私たちは、何かのために生まれてきたわけではありません。だから、私は、ただ生まれて、生きているというそのことをこそ、何よりも大切にしたいと思います。