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『八月の光』(朽木祥)読書感想文例

朽木祥(くつき・しょう)『八月の光』読書感想文例です。

分量は、題名・学校名・氏名を除き、400字詰め原稿用紙で4枚ちょうどです。

八月の光

八月の光

八月の光

  • 作者:朽木 祥
  • 出版社:偕成社
  • 発売日: 2012-06-21

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『八月の光』を読んで

神奈川 太郎

 『八月の光』は、このひと月に捧げられた記念碑のような作品だった。

 八月は、生者と死者との境がもっともあいまいになるひと月だ。私は、テレビであの戦争が取りあげられるたび、夏の暑さを忘れる。甲子園球場の焼けたグラウンドが映し出されていても、サイレンと共に黙祷が捧げられる様子に、ひんやりとした感覚を抱く。それはまるで、蝉が鳴く青空の下、墓参りに行ったときの墓石の冷たさのようだ。もっとも、夏の墓石が冷たいわけがないのだが。

 ページをめくっている間、私はその快くもある冷たさをずっと感じていた。残酷で悲しく、でもどこか甘ったるいような冷たさをずっと感じていた。私にとって『八月の光』は、そんな御影石のような作品だった。硬く、冷たく、ただひっそりと、しかし確かに敬意を払われながらそこに在る、記念碑のような作品だった。

 『八月の光』の文体は硬質だ。漢語が多く使われ、残酷なまでに冷徹な三人称が作品世界の入り口となる。淡々と、ただ淡々と事実の描写が続く。日常も非日常も同じ事実として描かれる。胡瓜の冷たさも、まとわりついて離れない屍の感触も。そこでは八時十五分すらも、単なる事実のひとつとして描かれる。感傷の排除が、作品の格調を高めている。

 この本に描かれたことは、作者である朽木の一次体験ではない。あの八月を生きた人々の記録・記憶が、フィクションへと再構成されたものだ。その意味で、これは事実ではない。それにも関わらず、すべては十分に事実らしく思える。非難もなければ怨嗟もない、徹底した「事実」の描写が与えるリアリティだろう。すべてが――それぞれの人物が生きた日常と非日常のすべてが――ただ「あった」こととしてポツリと置かれている。削ぎ落された叙情が、硬く冷たい作品を生み出している。

 『八月の光』は、それでもなおヒューマニズムである。圧殺しようとしてもしきれない愛が作品世界に通底している。朽木はすべての頁で人物に寄り添い、決して彼らから離れない。彼らの物語を紡ぐことをやめない。すべてを彼らの経験として描き、彼らが生きた八月を頁に刻む。朽木をそう突き動かすのが、彼らへの愛惜であり、哀惜でなくて何であろうか。愛したものの記憶を留めようとする姿は、まさに記念碑的である。

 作品をより甘く悲劇的にしているのが、無垢なる少女性への憧れだ。失われ、もはや触れることの叶わないあどけなさへの憧憬だ。私は、きっと真知子は死なないものだと思っていた。私の期待もあったのかもしれない。「もとおらん」娘ほど愛らしく思えるものだ。彼女の腕に痣が浮かんだときの気持ちを、どう書けばいいのだろう。私のこの思いはきっと、朽木の思いのアバターに違いない。

 ひょっとすると、真知子には朽木の母親が仮託されているのかもしれない。もしそうならば、真知子にとってのタツは、朽木にとっての祖母だろうか。真知子とタツのモチーフは、光子とテルノのモチーフに重なるだろう。

 あの八月から七十二年を経て、当時を知る人の多くは鬼籍に入ってしまった。あの体験を事実として語れる人々がいなくなるのも、文字通り時間の問題である。そこで私たちにできることは、事実らしい物語を紡ぐことだろう。それはあくまで物語なのだから、事実でなくても構わない。十分に事実らしいと思えればよい。ちょうど神話を紡ぐように、あの「体験」を語り継ぎ、紙に刻んでいけたらと思う。その神話的歴史が私たちを形作っていくだろう。平和を希求する私たちを。

 『八月の光』は装丁も美しく、まるで詩集のようであった。ヘクサメトロスで自分たちの出自と矜持を語り継いだ古代地中海の人々のように、この一冊が私たちの悲劇と決意を語り継ぐ記念碑になればいいと思う。


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